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津軽通信 パート1 1-1 1-2 1-3 1-4    

日本の深層−梅原猛の論について

10月15日水曜

今晩の深夜バスで弘前に出発する。その日1日かけて梅原猛「日本の深層−縄文・蝦夷文化を探る」(集英社文庫、1994年)を読みおえた。このなかで梅原は、かって東北は文化の先進地であったと力説する。梅原は東北の各地を旅しつつ、日本人の深層にある縄文文化を探っているのである。かって縄文時代には、今より平均気温が3、4度高く東北はさほど寒冷の地ではなかった。豊かに実った木の実を取り、海や川に出て魚をすなどることが、人々のなりわいであった。採取経済の縄文時代には、人々は自然と一体になり、奔放に生命のエネルギーを放出させた。それゆえ、生命の再生産には素直に驚き畏怖したのである。梅原によれば、人は死ぬと山にかえり、そして時折山から下りて生きている者と会話し、食事をともにするという信仰があったという。東北やアイヌに残るイタコ信仰、おしろ様伝説、性器崇拝などは、縄文人の心のありようを今なお示しているのである。縄文文化は東北が中心だけに、梅原は東北を後進地とする論に憤慨するのであった。面白い本であった。

なお、東北が辺境の地、文化果てる地となったのは、弥生時代以降のことである。というのは大陸から渡来した弥生人は稲作経済であり、大陸の文化を携えて日本にやってきた。米は多くの人々を養うことができた。のんびりおだやかに暮らしていた縄文人を数の上でも弥生人が圧倒する。しかも、氷河期に入り温度は下がり木の実がとれなくなる。海ははるか遠くに位置するようになる(青森三内丸山遺跡は市内から車で30分の位置にあり、小高い丘の上にある、かってはこの近くまで海であった)。縄文人の未開・野蛮な人々を征服していくのが、弥生人中心のヤマタイ国、大和政権以降の課題となる。気候の激変により縄文人が減少しただけでなく、大陸から弥生人が持ち込んだ病気(結核であるといわれる)がもとで縄文人は減っていったともいわれる。しかし生き残った縄文人が、西の雅びを代表する政権に抵抗し、しばしば反乱を起こすのである。東北が時の政権から忌み嫌われるのは、実は弥生時代からの長い歴史があるのである。

夜9時に品川バスターミナルに着いた。10時発のバスの車中はすでに津軽弁が飛び交う世界であった。「弘前はもう寒いンでないかい」と向こうの婆さんが言えば、「ウンダね」と相方が答えている。深夜まで津軽弁で二人は話込んでいた。