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   津軽藩最後の藩主                                                           

                                                   10月16日木曜

弘前には7時に着いた。岩木山が堂々と聳えている。空気はひんやりしている。
弘前駅に荷物を預けて、市内に出た。

まず、弘前城である。津軽藩10万石の居城である。初代藩主津軽為信(ためのぶ)が計画し、2代目藩主信枚(のぶひら)が築城したものである。3層の小さな優美な天守閣である。そのうしろには岩木山がひかえている。熊本城を見て育った私にとっては、あまりにも小さすぎてつつましやかな城であったが、岩木山を後景にするとなかなか趣のある城となることに気づいた。

ところで、津軽藩の最後の藩主は12代承昭(つぐあきら)である。彼は、細川斉護(なりもり、熊本藩12代藩主)の4男として生まれ、養子となって津軽に来ている。

近代の名君といわれた津軽藩11代藩主順承(ゆきつぐ)の4女常姫の婿養子となったのである。承昭は、義父のあとを継いで、最後の藩主となり天皇方に味方したことで有名である。津軽藩は、明治維新のときに東北・越後の諸藩と奥羽越列藩同盟を結び、時の明治政府と対決姿勢を当初示した。しかし、津軽藩が藩祖為信以来近衛家と親しかったために津軽藩は同盟を脱退し、東北では唯一勤皇方として倒幕に力を注いだ。その最後の藩主承昭は、20歳で藩主になっている。54万石の大名の子供として生まれ、江戸の細川家の屋敷(白金もしくは目白台)で育った。そして、10万石の小さな藩でしかも雪深い弘前までやって来た。この青年藩主が、どう藩内をおさめ、佐幕から転換して倒幕にどう議論を決したのか。優秀な参謀がいて、藩をおさめたのか。いや津軽藩は公家筆頭の近衛家とは藩ができて以来の関係のため、当初から勤皇であり、たまたま近衛家と縁のあった細川家から承昭が送り込まれたのか。京都の中央のことはともかく何でも信頼するといったことだったのか。いずれにしても、弘前は最後の藩主によって明治政府の信頼を得て、旧制弘前高校が設置され、旧第8師団が置かれる学都・軍都となったのである。それにひきかえ、最後まで幕府の護衛者となった東北の会津藩は悲惨な歴史を辿る。こうした歴史のためか、他の南部藩や伊達藩出身の者からは津軽人の狡さや先をみるに機敏だと批判されることになる。いやもともと津軽氏は大浦氏と言い、南部氏がおさめていた弘前周辺を時の権力者豊臣秀吉にうまくとりいって津軽の地を安堵されたのである。しかも、みずから藤原氏の末裔と称して近衛家とも昵懇となり、姓を津軽に変えたのである。ここにも、たえず中央をみて政権維持につとめるぬけめなさがあるのである。

その12代津軽承昭の兜・鎧・具足が天守閣の中に展示されていた。婿入りするときに、実家の細川家から持たされたものであるという。私は、議論うずまく藩にまるでいくさでもしにいくかと思ったりもした。なお、承昭は近衛家から婿養子をとり13代目は英麿である。14代目も養子であり徳川家から来ている。この14代目のお嬢様が、常陸宮妃の津軽華子さんである。

城の北側にある武家屋敷街にも行ってみたが、これも中下級武士の屋敷のせいか小さな粗末な家である。茅葺きになっており、小さな囲炉裏だけの暖房である。家の隣には家庭菜園の小さな畑があったという。たしかに、雪に半年閉ざされ、毎年のように凶作に苦しめられた土地だけに、豊かな富を蓄積して大きな城を築いたり、屋敷を建築したりすることはむずかしかったのだろう。それだけにかえって上も下も貧しさや飢えとどう戦うかの毎日だったのだろう。そこにまた、藩をあげての倒幕か佐幕かの議論である。藩主の力量が問われたのが、幕末の時代であったようだ。

昼を城近くの「高砂」でとった。そばがうまく棟方志功のひいきの店である。たしかにうまい。おおもりのソバをあっというまに平らげる。

この「高砂」の近くに吉田松陰が立ち寄った家がある。伊東広之進の住居である。梅軒先生として藩外まで、憂国家として知られた。吉田松陰は肥後人である山鹿流兵学者宮部鼎蔵とともに梅軒先生を訪ねている。明治になって松陰閣として家は保存されるようになった。この建物をみながら、かっては全国に憂国の士がいて、彼らは全国的に交流しているのだな感心してしまった。大分県日田の広瀬淡窓、熊本の横井小楠、大阪の緒方洪庵、そして松下村塾の吉田松陰などである。彼らのもとを多くの人が訪ねて弟子入りし、あそこには彼がいるから会いに行こうと、知識人や志士達は気軽に交流したようである。面白いな、まるでSASだなと思い苦笑いしてしまった。いやSASがまねたのか。でも、SASのメンバーは幕末や明治維新の頃なら大活躍した人が多いな。残念ながら腕力ははなはだ弱いのでどれだけ生き残ったか心細くなるが。今では憂国の士というのはおよそ時代遅れになっている。やはり、時代が人の活躍する場を提供するようである。

2時すぎの列車で青森に向かった。津軽平野はあたたかな陽光を浴びている。りんごがちょうどたわわに実っている。稲刈りの真っ最中である。向こうにはまた岩木山である。この地は豊作であれば、肥沃の土地である。しかし、2、3年に1回の割合でおとずれたという飢饉は、いくら前年豊作であっても悲惨な結果をもたらした。ひとつの村全てが飢餓で死亡したり、最後は死体の肉まで食べたという記録が残っている。

4時近く、青森駅近くのホテルにチエックインする。夜、「海峡」という居酒屋に入ってひとり酒を飲んだ。どこからともなく演歌が流れてきた。最後に飲んだカニ汁の味が塩辛く思えた。

夜、ホテルで一冊の本を読みおえた。石光真人編著「ある明治人の記録−会津人柴五郎の遺書」(中公新書、1971年)である。これは明治維新に際し、朝敵の名を着せられた会津藩の下級武士のひとりとして生まれた柴五郎の痛哭きわまりない遺書である。戊辰戦争によって敗北した会津藩は、下北半島に移封された。こうしてできたのが斗南藩である。今のむつ市、当時の田名部に藩の役所が置かれた。司馬遼太郎「王城の護衛者」(講談社文庫)に描かれた松平容保(かたもり)は謹慎隠居し、新藩主わずか2歳に満たない容大(かたはる)を先頭に、火山灰地の寒風ふきつける土地に会津藩士達は移住したのである。3万石といわれているが実際は何もとれぬ地であり、せいぜい7000石であったという。祖母、母、姉妹を戊辰戦争で失った柴も父や兄とともに辺地におもむいた。しかし、寒さと飢えでの生活により、1万4、5000人の会津人の苦しい生活が長く続いた。廃藩置県により、斗南藩は短期間のうちになくなり青森県になった。その後、会津から移住した人々は、また会津に戻ったり、北海道に行ったり、東京にでたり、海外に移住した人もいるという。柴は東京に出て書生となり陸軍幼年学校に入学し、軍人の道を進み陸軍大将となる。明治政府は、できたばかりの政府であったが、ひとかわむけば薩摩と長門を中心に土佐、肥前と公家達からなる政府であった。幕末から明治維新にかけてのエネルギーは、生贄としてどうしても彼らの敵が必要であったようだ。徳川慶喜は大政奉還して水戸にひきこもった。すると残りは東北のなかでも最後まで徳川将軍に恭順の意思を示した会津藩である。愚直なまでの生き方は会津藩主松平容保によく示されている。芋侍と軽蔑した薩摩の兵士により会津城は落ちてしまう。そして下北半島への強制移住である。なんともいえぬ報復を明治政府は行うのである。悲惨な下北での少年時代の話が胸をうつ書であった。東北は戊辰戦争のとき以来政府からうとまれ、特に会津はそうであった。会津若松には残念ながら軍隊は置かれず、高等教育機関も置かれなかった。そういった意味では弘前の津軽藩になぜ軍隊が置かれ、旧制弘前高校が置かれたのかその意味がよくわかる。そして津軽華子さんが天皇家に嫁いだのも首肯できるところである。