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津軽通信 パート3 前編 後編 
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          SASメーリングリスト津軽通信パート3前編  より

SASの皆様へ
黒田です。月1回程度で津軽通信を報告できればと思っておりましたが、公私ともに多忙をきわめなかなか報告できず、申し訳なく思っております。
さて、先週また青森に行ってきました。今回は、授業の打ち合わせとアパート探しが目的です。青森市内は、日中の温度が1度か2度です。少し曇ってくると小雪が舞い、氷点下に下がります。市内の積雪は1メートルです。そんななかをあちこち駆けずるまわってきたわけです。
先週行った雪の青森の雰囲気と数人の津軽や南部の人物、そして人々を育てた風土について、今回は報告したいと思います。番外編までいれてようやく4回目の津軽通信となります。お楽しみいただければ幸いです。

津軽通信 パート3 前編

「下北情話」

2月9日(月)

朝9時に家を出た。大井町経由で東京に出て、新幹線に乗る。盛岡で乗り換えて、午後3時に青森に着いた。6時間近くかかったことになる。毎回新幹線を利用しているもののやはり長旅である。車中の間、新聞2紙、週刊誌1誌、それに文庫本1冊を読み終えた。ついでに盛岡で買い求めた弁当一個を平らげる。車窓の風景は仙台あたりから雪景色になり、盛岡を過ぎるとすっかり小雪が舞っていた。青森駅は一面雪景色である。
早速、定宿のビジネスホテルにチェックインする。
夜は、同じ大学のT先生と一緒に青森市内の町で飲んだ。T先生は、東レ経営研究所の常務取締役から教授になられた方で、企業内研修・人事管理が専門である。大学近くの寮住まいということで、市内の繁華街(厚生年金会館近く)にある居酒屋「津軽茶屋」に案内することにした。
この「津軽茶屋」は、カウンターの前に今日おすすめの魚が置かれ、客は魚を指さして注文する。早速、イカとタコの刺し身を注文し、タラの白子も頼むことにした。女将が今の寒い季節だとどの魚もいちばんうまいという。とりわけタラはおすすめであるという。たしかに白子が山盛りででてきた。ぽん酢で食べると、食感がなんともいえずいい。ついつい日本酒のお銚子を数本空けてしまった。T先生は風邪気味とかで、女将がつくってくれた卵酒をうまそうに飲んでいた。またハタハタを焼いてもらい、これを肴にしていた。さんまも旨そうであったが、腹がすぐにふくれてきた。
この店は何度きても、いい店である。最後は、タラの切り身や野菜がたっぷり入ったジャッパ汁を食べた。これにも白子がたっぷり入っていた。体があたたまる。冬はこれである。
外にでると氷点下10度近い。酔客が数人、雪明かりの飲み屋街を歩いていた。T先生とは別れて、私はホテル近くのスナックに雪のなかを歩いて行った。ここも私の行きつけである。ママともうひとり女の子がいる小さな店である。2ヵ月ぶりに来たことになる。客は誰もいなかった。ウィスキーの水割を飲みながら、よもやま話に花が咲いた。次の客がなかなか来ないために、3人でついつい話し込んでしまう。女の子がこんなことを話してくれた。
「下北の出身なのよ。もうなんにもとれなくてね、蕎麦くらししかとれないの。蕎麦をゆでて、あれこれ野菜を入れて煮込むのね。これが子供の頃のごちそうでね。だから、蕎麦は今でも好きなのよ」
「下北は夏でも綿入れが必要なくらい寒くて。家は古くてすきま風が入るしね。そこに父が一人で住んでいるの。もう冬は寒くてね、ストーブたいても寒くてね。青森にでてきてこっちはあまり寒くないからね。アパートも断熱材が入っていて、あったかいしね」
下北は、青森でも自然条件の厳しい地域である。夏にはヤマセが吹いて、濃霧となり太陽が隠れる。このため作物がとれないのである。冬の寒さも厳しく、真夏でもストーブが必要という。老人がひとりそんな下北に住んでいる。娘は青森にでてきて働いている。なにやら酒がしめっぽくなってくるのであった。
幸いなことにしばらくして客が入ってきたので、私は退散することにした。身の上話のため酔いもすっかり醒めていた。雪景色のなかをホテルに歩いて戻った。

「竹山ひとり旅」

2月10日(火)

ホテルを出て、駅近くでパンとコーヒーの簡単な朝食をとる。昨夜の酒がきいたのか二日酔い気味である。
その足で大学に行った。道は除雪されているが、車がノロノロ運転のために渋滞している。バスがなかなか大学まで着かなかった。夏と比べて20分程度よけいかかって到着した。1時間近くかかったことになる。
打ち合わせは1時間ほどで終わった。来月には、企業から派遣してもらう社会人学生募集のためにT先生や私を含めて数人で県内の企業をまわることになった。大学は今や18歳人口の減少で経営が苦しくなっている。あれやこれやの手を打って、ともかく学生を集めることに必死である。何もしなくても、受験生がおしかけたのは昔の話である。これは青森大学も同じである。今では推薦入学枠を増やし、一般入試の回数も2、3回に分けて募集したり、センター試験のみで募集したり、留学生や帰国子女の枠を設けたりしている。そうしたなかで、夜間コースで社会人を募集する大学も増えている。私の大学も同様であり、夜間コース20人の枠に1月末段階で数人の応募しかないために、企業から派遣してもらおうというのである。ホント、教えるだけですむ時代ではなくなってきた。教える側も積極的に大学を販売しに行く時代になった。
昼にまた市内に戻る。いつものラーメン屋「鳴海丸海ラーメン」でラーメンを食べた。青森の味は、やはり煮干しでダシをとったここのラーメンにつきるようだ。
午後は、数軒不動産屋を見て回った。物件は3月にならないといいのが出ないという。いずれにしても3月になってもう一度尋ねることにした。
夕方、レコード・CDショップをのぞいた。高橋竹山のCDを購入するためである。
5日に死去したために、追悼ブームのせいかCDが目立つところにおかれていた。早速一枚買い求め、その足でホテルに戻った。
高橋竹山は最後の門付け芸人と呼ばれた盲目の三味線弾きである。青森県内に生まれたが、幼児の頃ハシカがもとで半失明となった。盲目の旅芸人に弟子入りして、三味線を習い、家々の軒先で演奏して金や米をもらう門付けの芸人となった。東北や北海道を門付けしながら放浪した話は有名である。
戦後、津軽民謡の大家成田雲竹の伴奏者となり、その後独立して三味線の独奏者として一躍知られるようになる。70年代に渋谷のジャンジャンで竹山が演奏会を開くと、満員の盛況であった。歌もない三味線の独奏に若者がひかれたのである。私も、一度学生の頃に友人の下宿でレコードを聞き、感動したことを覚えている。津軽三味線は激しい撥さばきで知られ、極太の音色が聞く者の心をかきたたせる。いつかナマで聞きたいなと思っていたが、残念ながらその機会を逸してしまった。
夜は、行きつけの寿司屋「寿司文」(市内本町5丁目)に出かけた。ここの魚は、どれも逸品である。自信のあるものしか進めないし、仕入れないほどである。ここの穴子は、人から幻の逸品と聞いていた。なかなか食べれないというのである。そういえば前回は食べれなかった。ところが今日聞いてみると、あったのである。早速穴子がでてきた。ふわあっとして柔らかく、口のなかでとろけるようである。そしてタレの甘さが香ってきて、少し散らしたごまがきいてきた。聞くと、ナマをさいて軽く焼いているという。
「先生、うまいだろう。雪のように口のなかで溶けるだろう」
穴子のうまさをこう表現されたのははじめてであり、実際こんなに美味しい穴子は、はじめてであった。「うまいね、淡雪が溶けるようだね」と答えると、経営者兼職人のおやじは、うれしそうであった。この店は病み付きになりそうである。
10時にはホテルに戻った。
竹山のレパートリーのなかでは即興曲「岩木」が私の好きな曲である。津軽の四季を三味線の独奏で表現している名曲である。しかも、これはどれを聞いても同じものはない曲である。即興曲のため、ステージごとに違うのである。ましてや盲目のため、楽譜はない。すべて彼の頭や心に浮かぶイメージが曲となるのである。しかも、彼は、小さい時から失明している。津軽の自然は、目ではなく、香りや音、肌で感じるしかなかったのである。この曲を、竹山はステージの最後に弾き、14、5分間掻き鳴らした。聞いた満員の聴衆は圧倒され、なかには涙にひたる人で一杯であったという。
私は、「岩木」を聞くと、どうしても津軽平野の匂い、吹く風そしてそびえ立つ岩木山をイメージするのであった。とはいえ、ビバルディの「四季」のような垢抜けたセンスはない。どろくさい極太の音であり、厳しい自然のなかで生きているたくましさが感じられるのであった。明日は休日を利用して弘前に行き、そして岩木山を見に行くことにしよう。この五感で津軽を感じたいと思ったからである。
(以下続く)


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津軽通信パート3 後編

「死刑囚永山則夫のこと」

2月11日(水)

朝起きると、外では小雪が舞っていた。休日のため人は余り歩いていない。フード付きのコートに手袋、マフラーそして靴はホーキングスのシューズで外に出た。雪が横から降り、傘もさせない。なるほどフードがあればこれで大丈夫である。しかし、寒気が肌を刺す冷たさである。
朝食は、駅近くの魚市場でとった。市場内にある掘っ建て小屋のような食堂「細川食堂」である。ここは、カウンターにならんだ惣菜のなかから自分で適当に選んで食べる仕組みである。私は、あったまる食べ物にしようと思い、豚汁定食に目の前にあった鱈の焼き物と野菜の煮物を注文した。でてきた豚汁に驚いた。どんぶり一杯の豚汁で、野菜もぶつ切りである。飯も大盛りである。フーフー言いながら平らげた。汗びっしょりである。
見ると、隣の客は、ごはん、みそ汁、マスの焼き物、野菜炒め、それに生がきを3個という豪華な食事である。また、その隣の客は、稲庭うどんに鮭を食べている。市場内の食堂のために午前4時から営業している店である。今度は、午前6時頃から来て、ビールを飲みながら生がきというのもいいな。ここは、かっこうの朝食の食堂であった。雪も小降りになったので、駅に急いだ。11時の列車で奥羽本線川部に向かう。ここで五能線に乗り換えで板柳(いたやなぎ)に正午に着いた。何の変哲もないマチであった。なぜここに来たかというと、先週永山則夫の小説「木橋」(河出文庫、97年)を読んだからである。彼は、北海道網走で生まれ、この板柳に母と一緒にやってきた。父はばくちと酒でどこかに去り、帰って来なかった。浮浪者のようになって数年後広島で死亡している。母の故郷である板柳に、永山則夫は兄妹6人と住んだのである。盗みと家出を繰り返し、そのたびごとに連れ戻されてきたのがこの板柳である。
駅から出るとすぐ右手に板柳温泉がある。温泉の角を右に折れて、しばらく行くとマーケットと当時言われた長屋があった。行商をしていた母と住んだところであり、今なお残っていた。雪のなかに傾いたように、埋もれるように長屋はあった。父と別れた母は、リアカーで魚を近郊の町や村に売り歩いた。しかし一家7人の生活は苦しかった。
6畳一間の一家の生活ぶりは、小説「木橋」に詳しい。私は、この今にも崩れおちそうな長屋をみて、ほんと小説どおりの貧しい光景だなと思った。
一旦引き返し、駅からまっすぐ役場の方向に向かった。役場手前の右側に、母の実家であった棟方板金加工があった。小説では、トタン屋としてでてくる。さらに真っ直ぐ行くと、木橋である。小説のタイトルとなった橋である。実際は、岩木川にかかる板柳橋(ばんりゅうばし)である。当時木造であった橋も今ではすっかり鉄筋の大きな橋となっている。この橋を越えると弘前市に入る。私は、木橋を渡りつつ、真正面に対峙する岩木山に見とれていた。小説のなかに稚拙な挿絵がある。絵を書くのが好きだった彼が描いたものである。そのなかに、木橋の向こうに聳える岩木山を描いたものがある。
挿絵どおりの光景であった。雄大な山となだらかな稜線が津軽平野を睥睨(へいげい)しているようである。
橋を渡って弘前市内にはいると、すぐに新聞専売店があった。永山が中学のとき新聞配達をやっていた店である。長距離走が得意だった彼は、新聞配達でこづかいをかせぎ、伝書鳩を飼育していた。「小説のとおり、そのままだな」あらためて、昔のままのたたずまいが残っていたマチに驚いた。そして、彼が克明にそれを小説のなかに再現していたことに感動したのである。
3時まで列車が来ないので、駅の待合室で2時間近く時間をつぶしていた。この小説「木橋」は彼の自伝的小説である。少年の頃の話をモチーフにし、木橋が川の氾濫で渡れなかったことを描いた小説である。この小説で新日本文学賞を83年に受賞している。彼は、獄中でこの小説を書いた。自分の少年の頃の思い出を克明にたどって書いたのである。 中学卒業後、このマチを逃げるようにして、集団就職列車に揺られて都会に出た彼は、職を転々とし、ときには夜間高校に入ろうとしたり、海外渡航を企てようようしたが、いずれも失敗に終わり、最後は連続殺人を犯してしまう。
待合室にカラフルなスキーウェアを着た少年2人が、スキー板をかかえてやってきた。近くでスキーを楽しんできたようだ。屈託のない笑顔であった。健康そうな頬である。
「そこそこに豊かになったんだな。永山を生んだ貧しさもなくなったんだな」
そう思わざるを得なかった。永山少年が、万引きと家出を繰り返していた頃の貧しさは、みかけなくなり、日本もこのマチも、豊かになってきた。身なりがみすぼらしい子供らもいなくなった。また金の卵たちも高校に行くようになり、中卒の集団就職列車も石油ショックの73年に廃止になってしまった。
夕方弘前に出た。早速、弘前城からすこし入った「會(かい)」に蕎麦を食べに行った。弘前は棟方志功が通った「高砂」が有名であるが、もう一軒このこの店も知られている。出てきた天ぷらせいろを味わった。うまい。特に、蕎麦がしこしこした歯ごたえがあった。しかし、天ぷらはどうやら「高砂」に軍配があがるな。
満月の下、夜の弘前城に行き、灯の入った雪灯籠を見て青森に帰った。

「津軽の一三歳は悲しい」

2月12日(木)

朝10時すぎにホテルをチェックアウトする。昼すぎの特急で盛岡に向かい、新幹線で帰京した。夜に東京に着いた。東京はまるで春めいて、あたたかい南国を思わせた。
すっかり汗ばむほどであった。
下北にひとり住む老人のことや盲目の竹山、そして永山則夫のことを思うと、寒さと貧しさがよみがえってくるのであった。北国、雪、貧しさ、寒さ。これでもか、これでもかと悲しい話になってしまう。永山則夫は小説「木橋」でこう書いている。
「後年−、N少年は、檻の中で、次の詩を書きのこしている。−
(中略)
シンシンと音もなく降る 降る
悲しみの根雪が積もりくる
津軽の一三歳は悲しい」
昨日の板柳で見た、崩れかけた長屋の光景がまたよみがえるのであった。ちなみに、永山則夫は昨年夏に死刑が執行されている。恐らく、彼の小説もそのうち読まれなくなり、彼の名を口にする人も減っていくのであろう。そんなことを思ってしまた。
(終了)