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津軽通信 パート5前編 後編 
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          SASメーリングリスト[sas 1258] 津軽通信パート5前編 より

SASの皆様へ
ごぶさたしております。津軽は青森の黒田です。ねぶた祭りも終わり、青森の街にも静けさが戻ってきました。
私も、ようやく読書に集中できたり、ものを考えたり、まとまって書いたりできる時間が持てるようになりました。
今回、ねぶた祭り前後の身辺雑記を津軽通信でお送りすることにしました。ご一読いただければ幸いです。

津軽通信 パート5 前編

学生へのメール

7月31日(金曜)

未明から胃がしくしく痛むようになってきた。ここ2週間、忙しかったせいか、胃を痛め続けてきたようだ。先週は、学生を連れて函館にゼミ旅行にでかけてきた。なにせ、高校生なみの学生のために、私のほうが引率の教師というより、添乗員であった。忘れ物から始まって、部屋割り、食事の時間、明日の集合場所など、すべて一度説明したのにもう一回私のところに聞きにくるのであった。ホント、おもり役であった。
また、今週は、東京自由が丘の飲み仲間とともに、十和田湖、奥入瀬そして八甲田山登山と駆け足でまわってきた。久しぶりに、蔦温泉、谷地温泉、酸ケ湯温泉とはしごしてきた。
大学は既に夏休みに入っていたものの、ここ2週間が目のまわるような忙しさであったことから、体に変調をきたしたようだ。とはいえ、やることも多い。学生あてにメールを送る仕事がたまっていた。というのも、ゼミの学生に最近読んだ本の感想をワープロで入力させて、メールで送らせたのである。送れない者は、研究室に持ってこさせた。20人近くのうち5、6人がメールで送ってきた。残りは、持参してきた。レポートを出した者には、私からメールを出すことにしたのである。
胃の痛みをこらえつつ返事のメールを書いた。
まず、三国志演義を読んだ青森市出身の学生である。私は、昨年SASで中国三峡をくだった旅の思い出と、三国志が中国人の国民性を理解するには最適なテキストだと書いて送った。
「中国人を理解するのにはどんな本がいいかというので、ある知り合いの台湾人が私に教えてくれました。紅楼夢、水滸伝などでましたが、最初に三国志がでてきました。
三国志に、中国人のすべての国民性が表現されているというのです。たしかに、三国志にでてくる登場人物が、その後の中国の政治には姿を変えてでてきます。毛沢東も周恩来もそして将介石も原型は三国志にあるようです」
また、初期キリスト教徒の非暴力とガンジーの非暴力について、力を込めて書いた学生にも返事のメールを書いた。どの本を読んで書いたかわからなかったが、レポートは面白く書けていた。私は、学生にギボン「ローマ帝国衰亡史」(筑摩書房)の第2巻15、16章初期キリスト教徒の章を引用しつつ、次のような醒めた意見を書いて送った。「歴史はどうもきれいごとではないようです。初期キリスト教徒は、いわば貧しい虐げられた下層の人々であったのです。彼らは、苦しい生活から逃れるためになんとか食事にありつけるキリスト教徒の集団に身を投じて腹を満たし、そしてできればはやく天国に召されてこの苦しい現世から逃れたいと考えていたようです。非暴力といっても、高邁なところから発する思想ではないようでした」と。さて、どんな反応があるか。秋田県出身の純真な学生からの返事が楽しみである。
「奪われし未来」について、送ってきた学生もいた。早速返事を書いた。この本、環境ホルホンの危険性を説いた、最初の本である。レポートは、本の内容を自分の視点で紹介しており、面白くレポートを読んだ。残念ながこの本は私が読んでいなかった。と
はいえ、いちおう全ての本を読んでいるようなふりをせねばならぬ教師稼業なので、「鋭い問題意識ですね。環境ホルホンは今、21世紀をこれから生きる人々の差し迫った課題です」と適当なことを書いて送ることにした。
こうやってメールを送ることにしたのは、ゼミといっても学生の数は20人以上おり、しかも議論するといっても、みな下を向き黙ってしまい議論にならないからであった。ところが、ひとりひとり何か文章に書かせてみるとそれなりに書くことができた。どうも、発表したり意見を述べたりするのは苦手のようだ。そこで、手間はかかるが、ひとりひとりに文章を書かせて、それに対してこちらからコメントを送ることにしたのである。まるで個人教授である。
でも、メールのおかげで、きたない字も簡単に読めるし、誤字や脱字のことで注意する必要もない。おまけにすぐに返事を送れるので、私には大助かりであった。モノを言うのも、発信するのも苦手な学生にはこのメールの方法が、いちばんいいようだ。
ようやく5、6人の学生にメールを送った。
ゼミの女子学生からメールが来ていたので、返事を送ることにした。この女子学生は、前回の津軽通信にでてきた北海道の名門の女子高校を中退し、その後大検で入学してきたの学生である。彼女は高校中退後、北海道をぶらぶらし、時には北海道日高の牧場で馬の世話をしたり、札幌のすすきのスナックでアルバイトをしていたという。そんな体験を綴り、ある道内の文学賞に応募し優勝したこともあるという。たしかに、レポートは面白いし、読む本も視点の違うものが多い。いい資質を持っている。このままいくと文章で飯が食えるようになる。しかし、一人娘のせいか、こつこつ努力したり、ひとつのことを持続したりすることが苦手なようだ。私は、メールで次のように書いて送った。
「小説家とは、書くのを最後まであきらめなかった素人だそうです。ということは、途中であきらめた者が、いっぱいいるということです。ボツになり途中まで書いてやめた書き損じの原稿用紙を、ダンボール一箱分ためてください。そしたら物書きになれるでしょう」
昔の文士なら柳行李(やなぎごうり)一杯にボツの原稿用紙の束が入っていたという。それを思い出したのである。さて、彼女どんな反応を示すやら。
ここまで作業をしていたら、疲れきってしまった。ホント、メールはいいが、一人一人に返事を書くとなると大変な作業である。おまけに胃まで痛むのであった。
今日は、早めに横になることにした。

城下町弘前のねぷた

8月4日(火曜)

8月に入ると青森はねぶたの季節である。青森はねぶたと濁音になり、弘前はねぷたと半濁音になるのである。前者のねぶたは凱旋の様子を現しており、ラッセラーと掛け声をかける。後者のねぷたは、出陣の様子を現しており、ヤーヤドと声をかける。灯籠にも違いがある。前者のねぶたは、勇壮な武将の姿を描いた大型の灯籠である。道路横いっぱいに広がって運行される。しかし後者のねぷたは、扇形をしたこぶりなものが多く、表の鏡絵は武将の絵であるが、裏の見返りは美人画という決まりである。鏡絵より見返りが好きだというファンも多い。
ねぶたの季節に入ったので、早速私は弘前にでかけてみた。
夜、ヤーヤードーの掛け声とともに、弘前城追手門からひっそりと灯籠がやってきた。鏡絵と見返りがなんともいえず情緒がある。扇型でこじんまりとしているせいか、なんとなくしんみりとして、趣がある。ねぷたを引っ張る人々と囃子方だけの少人数の運行である。青森のねぶたにみられる跳人(はねと)はいない。しかも弘前のねぷたは、町内会や商店街の手になるものが目立っている。地元の伝統に支えられた祭りであることがわかる。ねぷたの向こうには、弘前城の緑がほの暗く見えた。
「ああこれなんだな、弘前のねぷたに愛好者が多いのは。青森のようにハデでなく、どことなく落ち着きがあり、弘前の城下町にふさわしい祭りになっている」などど思ってしまった。弘前市民が青森市民を小馬鹿にするのもわかるようであった。文化や伝統がないガサツな港町の青森と、殿様が住んだ町弘前との違いが、祭りにもでているようであった。
ちなみに、ねぶたの起源にはいろいろな説があり詳しいことは不明である。一説によれば、坂上田村麿が蝦夷征伐のおりに敵方をおびきよせるために、大きな灯籠をつくり、鐘や太鼓を打ち鳴らし、出てきたところをたちまちのうちに捕らえたという。この故事からねぶたが生まれたという説である。またある説では、津軽為信の重臣が、暑気払いのために灯籠を屋敷のまわりをひいてまわり、これが最初のねぶたというのである。
また、七夕祭りのときに、子供たちが竿に灯籠を吊るして村を練り歩く「ねむり流し」の民俗行事が古くからあり、この行事がねぶたになったというものである。しかも、ねむいが津軽弁で訛って「ねぷた」になったのである。いずれにしても、七夕祭りとして行われるもので、悪霊を払う群衆の踊りのひとつである。そのため、青森のねぶたでは弘前と違い、最終日には灯籠が海上を船に乗って運行される。これも、灯籠流しの一種であるといわる。
夜、9時の列車で弘前をたった。10時に帰り着いたがやはり疲れてしまった。
(以下続く)


津軽通信パート5 後編                  前編
       SASメーリングリスト[sas 1259] 津軽通信パート5後編 より

津軽通信パート5 後編

カラス跳人とは

8月5日(水曜)
ねぶた祭りは今年は雨にたたられた。2日からねぶた祭りは始まり、今日まで晴天に恵まれたのは1日間だけであった。そんなこともあって、今晩は早めに街にでて見物することとした。
夜、通りの向こうから、ねぶたの灯籠が現れると観客から歓声があがった。ねぶたの前には、はねと(跳人)と呼ばれる浴衣、花笠の衣装の人々がラッセラー、ラッセラーのかけ声ととも跳びはねまわっている。すごい数である。すさまじいエネルギーである。ともかく野放図に跳ね回り、声を嗄らしている。こうした大型ねぶたが、今夜は20数台目抜き通りを、練り歩いた。
しかし、ねぶたを運行しているのは、JR東日本、NTT、ヴィブレグループ、三菱電機グループ、日産グループ、ナショナル店会・・、など地元を代表する企業や団体ばかりである。聞くところによると、昔は地元町内会がねぶたを制作し、運行していたが、次第に大型化するにつれて経費もかさみ、企業や団体がとってかわったという。たしかに、竹や木、それに和紙でできた大型ねぶたを制作するだけで、毎年数百万円かかる。これに、囃子方、跳人まで含めると100人以上の人々を集めて、毎日衣装を用意し、弁当を食べさせ、酒を飲ませるとなると、町内会の金ではできない。いきおい、地元有力企業の出番となる。それでも1000万円以上の経費負担になるのである。この結果、祭りが大型化するにつれて、地元の人々の手から祭りが離れていってしまったようだ。なんとなく観光のための祭りのようでもある。
企業名をつけたのねぶたの灯籠がひっきりなしに、通りすぎるのを見つつ、「ああ、この青森もそれなりの支店経済なのか、いや出張所経済か」と思ってしまった。
最後尾に、突然異様な集団がいた。カラスである。このカラス達、この青森ではカラスハネト(烏跳人)といわれる。ここ10年ばかり必ずカラスがでてきては、あばれているのである。カラス達は、10代、20代の若者で、男女の区別なく、時には1000人近くに膨れ上がることもある。黒やピンクの衣装、白のステテコをはいたりして、ねぶたのなかに入ってきては、爆竹や花火を鳴らして騒いでいる。祭りが終わっても、道のまんなかでたむろし、ときには喧嘩をしたり、目抜き通りで酒を飲み放歌高吟するのである。いつも、警官とにらみあいをしてこぜりあいもする。青森では、ねぶた祭り
には、必ずでてきては、市民から嫌がられており、毎年このカラス達をどうするかが、ねぶた祭りでの重要な課題となっている。
私は、こうした警官と若者とが衝突する光景は昔から嫌いではない。そこで、今夜ねぶた祭りが終わった後も、カラスにくっついて彼らを観察することにした。
ところで、ここから重要なのであるが、なぜこうした若者がでてきたのかということである。社会学を専攻した私の目では、この現象はつまり「管理社会でのルール化された逸脱行為」ということと思うほかなかった。若者にとって、年に一度の決められたハレの場ということである。
青森県は、長野県と同じで風俗営業の店がない。全国では2県だけといわれる。条例できびしく規制されており、青森県はタテマエ上は聖人君子の住む清潔な県(ほんとかしらん)となっている。また、淫行条例も厳しく、学校の先生や大学生が女子高校生をかどわかして淫らな行為をしたというので、よく逮捕されている。しかも、青森県警のトップは出世コースで、この地で手柄をたてて東京の警察庁に戻るのがおきまりのコースとか。となると、やるきまんまんの警察トップは、県庁と組んできびしく取り締まり、清潔で悪がはびこらない県にするのである。まるで、プロテスタントの倫理がちがちの、厳格な風土がここで生まれるわけである。
このため、風俗の店や法すれすれのいかがわしい店は裏に隠れてこっそりやることになるが、それでも摘発が厳しくなかなか商売が成り立たないといわれる。どうやら、無垢な子供を育てるにはいい県だが、若者やいかがわしいのが大好きな私にとっては、つまらない県といえる。
そこで、思うのだが、人々にはやはり、いかがわしいもの、猥雑なものが必要であり、いわば東京の歌舞伎町はどこの県にもそれなりに不可欠なのである。所詮、人は聖書の教えだけや道徳だけでは生きることはできない。聖と俗、ハレとケ、正と悪、きれいなものときたないものは、両方必要なのである。
そんなわけで、1年に1回、ねぶたのときに、青森の街全体が狂い、いわば東京新宿歌舞伎町に青森がなってしまうのである。このとき、若者は街に繰り出し騒ぐのである。これも清潔だからの裏返しであろう。でもよく考えると、農耕社会においては、ハレの日というのは年に1回程度しかなく、飲めや歌えのどんちゃん騒ぎをハレの日にやって、あとはケの毎日単調な日々を送るのが普通であった。ところが、農耕社会から近代化が進んでくると、毎日ハレの日となり、東京や大都会では毎日祭りをやっていることになってしまった。これは、一体何だろう。青森はまだまだ農耕社会の規範やルールで動いているのか、そうか青森県では産業革命もこないままで近代化もまだなのかと、あらぬ連想をしてしまった。
話が脱線したが、ねぶた祭りのこうした若者の無軌道ぶりは、青森県警も充分にわかっていることから、祭りが9時近くに終わると警官が取り巻くなかで若者を適当に遊ばせ、最後は駅まで誘導して解散させたのであった。警察官が遠く立ち並び、見守るなかで、カラスの若者は道路にすわり、酒盛りをして、大騒ぎをしてそのうちみな満足して帰宅していった。
駅前で繰り広げられる光景をみつつ、なんともはや、管理社会のいきつく先をみた思いがした。これではまるで、母親に見守られて、砂場で遊ぶ子供と同じだな、とも思った。

脱け殻の街

8月8日(土曜)

昨日でねぶた祭りが終わり、ひっそりとした静かな街に青森は戻ってしまった。週末なのに、人出も少なく、店も今日から休みというところも目立つ。
そういえば、青森市出身のゼミの学生がこんなことを言っていた。
「先生、ねぶたは見るものではなく、参加して跳ねるものですよ。面白いですよ。祭りがおわっったらどうするかって、あとは来年のねぶたのことを考えて、秋や冬にひっそり耐えるだけですよ」
たしかに、祭りのあいだ跳人の連中は目を輝かせて、いきいきしていた。ところが、祭りが終わった後は、街中が虚脱状態のままで、人々の目もどことなく沈んでいる。祭りの狂ったようなエネルギーがどこかに消えていってしまった。
今年は、梅雨が明けないまま、とうとう立秋になってしまった。吹く風はすでに、ひんやりしてきていた。青森はもう秋になってしまっていた。
                                         以上